あなたは多数派と少数派、どちらの側にいたいですか?日本人のほとんどは多数派と答えるかもしれませんが、私は少数派です。なぜなら、その方が楽しそうだから。なんとも単純な理由に思えるかもしれません。
いつからそんなマインドになったのか、振り返ると中学時代がターニングポイントになったように思います。私自身、中学時代は辛酸をなめ続けた3年間、生きるのに必死でした。家にも学校にも逃げ場がなかった、そんな中で感じ取ったことをご紹介します。
小学生の時は、そこまで通信簿が重視されることはないですが、中学生になると通信簿が超重要視されます。
内申点として高校受験の時に影響するからです。私の中学時代、相対評価と絶対評価が途中で入れ替わりました。
今でもアンフェアだなと思います。だって、相対評価と絶対評価で評価が相当異なるんですよ?3ばっかりだったのに、急に4とか5とかバンバン出るんですから。
中学時代の私は、理不尽な目に遭うことが許せず、先生に物申していました。ここはおかしい、単にあんたが楽したいだけだろ?とか、よく言ってたので、通信簿に書かれるコメントは、もう辛辣でした。
屈折してるとか、独りよがりとか。それを両親が見て、だからお前は屈折してるんだ!と何かにつけ言われてきました。周りの人は、理不尽な目に遭っても先生には何一つ言いません。
内申点が人質になっているから。私は好き勝手言ってたら、通信簿の数字は明らかにひどい扱いだし、先生のコメントは辛辣だし。先生に盾突いていたのは私だけでした。でも、裏ではみんな、先生の悪口。うまく生きてるよなぁ。
幸せな家庭を築く人は、理不尽な目に遭っても反旗を翻しません。どれだけ腹を立てても愛想笑いを浮かべます。私はそれができない人間です。それができるあなた、幸せな生活をつかむ権利があります。
私は中学時代、とある文科系の部長を務めました。まぁ部長の仕事は、生徒総会で矢面に立たされるぐらいなんですが。
しかも、上下関係はありませんと部活動紹介で書いたもんだから、社会不適合者みたいな人しか集まらず、部長なのに一番の最下層の扱い。
何かあれば部長として矢面に。やりたいこともやれず、卒業式の日に、顧問の先生と大喧嘩してサヨウナラ。女性から先輩、先輩と黄色い声援なんか飛びません。
やっぱりサッカー部とかソフトテニス部とか野球部とか、そのあたりが人気でした。体育会系の部活は、上下関係がきっちりし、根性論がまかり通るので、そこでしごかれると、会社で嫌なことがあっても乗り越えられます。急成長を遂げる企業って、体育会系の雰囲気がありませんか?
私は運動が苦手で、野球部もサッカー部もありえないと思っていました。何より上下関係が嫌いだったので。それだと、社会が求める人物像からかけ離れるんです。あと、根性論が通じないと、社会では嫌われます。根性論が通じて、扱いやすい人を社会は求めています。
だから、文科系の部活に入った時点で、結構しくじってると言えるでしょう。特別な才能があれば別ですが、THE凡人は体育会系の部活に入るべきです。文科系の部長を経験して得たものは、責任だけは取るから後は自由にやってくれという放任主義になれたことぐらいでしょうか。
体育会系に入り、きつい練習を経験し、試合に負けて泣ける人でありたかったですね。
私は、いじられキャラです。自分で言うことではないですが、事実、学生時代はそうでした。学校内で一軍、二軍、三軍があるとすれば、身分的に私は三軍の補欠ぐらい。これだと、三軍の中で醜い争いをして負け、学校での居場所がありません。
私はできるだけ一軍に近づき、下僕としてあり続けたわけです。これなら三軍は手を出さないです。でも、下僕であり続けることは、思春期の私の自尊心を粉々にさせました。それでも生きる道がそこしかなかったとしたら、私はそこを歩まざるを得ません。
今、リア充として頑張っている人は、下僕として生きなかった人です。一軍で輝いた人、二軍を極めた人、三軍の補欠として辛酸をなめ続け、下剋上を起こした人などです。
そういった人たちは、プライベートが楽しかったんでしょう。ゲームを極めるとか趣味で結果を出すとか。私の場合、ゲームはさせてもらえない、テレビは見せてくれない、親に反抗してはいけない、好きなことをさせてもらえませんでした。
隠れてこそこそやってましたけどね。無気力に怠惰に、音楽やラジオを聴いてただけの中学時代です。学んだことは、何か1つでも好きなことを見つけている人は、そこに逃げ場があるんで、辛い状況を乗り越えられるということ。
それがキャバクラだろうが、ギャンブルだろうが、メイド喫茶だろうが、どれでもいいわけです。
それで仕事がバリバリこなせるのであれば。幸せな人生を謳歌する人は、趣味が恋人や家族、子供に変わります。他人の趣味がたとえどんなものであっても、奪ってはいけません。
重い話に聞こえるでしょうが、今までの人生で私は学生時代の話をネタにしてきたので、芸人でいう「おいしい体験」だと思っています。マインドは芸人でしたし、そうしないと存在価値がなかったわけです。
努力は必ず報われるという言葉がありますが、努力は才能です。そして、努力は最初から身についているものではありません。そこをはき違えている人があまりにも多いのが残念です。自己責任の世の中ですが、努力できない人は精神的な傷を抱えている人です。
そのような人を一刀両断にするほど、私は残酷ではありません。
子供の頃、みんな必死で勉強し、遊んで、恋をして、青春を謳歌してオトナの階段を上がっていくものです。
いい大学に入り、いい就職先を見つけ、いい奥さんをゲットし、家を建て、子供を作って立派に育て、多くの孫に囲まれる、これが多数派の皆さんが描く幸せの青写真。私は、勉強もテキトー、家でゴロゴロ、恋なんかしないし、青春?なんじゃそりゃ状態。
幸せの青写真に登場するもの、わずかしか得ていません。ただ、それでも今、私は幸せです。おかげさまで仕事には恵まれ、何とか趣味を謳歌するレベルには稼げていますし、大好きなお酒も飲めています。
相変わらずパートナーには恵まれませんが、性格的に結婚しちゃいけない人なので、別に気にも留めていません。1人1人が幸せならそれでいいじゃん、私はそう思っています。
「多数派が描く幸せ」に縛られて苦しんでいる人は相当いるはずです。でも、あなたが思い描く幸せさえ体現できたらそれでいいわけです。うまいビールさえ飲めればいいとか、競馬を楽しめるぐらいに働ければいいとか、そんなもんでいいんです。
みんなが自己満足で生きられれば、きっと日本はハッピーになるでしょう。あまりにも、「多数派が描く幸せ」に縛られ過ぎではないでしょうか?